「神経経済学をつかむ」というタイトルで、その歴史、手法、研究例を紹介しました。
神経経済学は、経済学と認知神経科学にそのルーツを持っています。それぞれの分野が今までの研究の行き詰まりを解消すべく、新しいパラダイムを探す中で、お互いに出会ったのでした。
1930年代から50年代にかけて、経済学では新古典派・顕示選好理論派と呼ばれる考え方が主流になっていました。1960年代に入ると、実際の人間の行動と、これらの理論から導かれる予想とが乖離していることを示す実証(アレのパラドクスなど)が発表されるようになりました。この矛盾を解消しようという試みの中から、行動経済学、実験経済学、そして神経経済学が生まれます。
新古典派・顕示選好理論派の考え方のひとつの特徴に、「人の頭の中をブラックボックスとしている」ことがあります。選択行動の結果のみから選好関係がわかる、という前提から出発して理論を組み立てているのです(顕示選好理論)。ここに心理学の知見を応用し、選好関係が生まれる過程についての理論を作ったのが行動経済学です。また、人間の行動についての理論であるにもかかわらず、実証してこなかったという特徴もあります。ここに注目し、心理学実験の手法を応用して経済理論の妥当性を検証していこうとしているのが実験経済学です。経済学から見た神経経済学は、この実験経済学の手法を用いて、行動経済学の理論を検証しようとする試みの中で生まれました。
一方、認知神経科学では、1980年代に観測機器が急速な進歩を遂げたことに伴い、意識と脳の働きに関するモデルが乱立しており、統一理論の必要性が叫ばれていました。そこへ1996年、ある研究者によって経済学理論が持ち込まれ、初めての神経経済学的論文が出版されます。認知神経科学から見た神経経済学はここに成立します。
その5年後、2001年には神経科学の知識を応用した経済学の論文が発表されます。その後数年の間に、神経科学で人間の意思決定を解き明かそうとする研究者たちが一同に会する機会が数多く持たれ、2003年の会合で、この分野を「神経経済学(neuroeconomics)」と呼ぶことが決まります。翌2004年には神経経済学会が組織され、神経経済学は学問分野として確立するに至りました。以下は1990年から2006年までの、神経科学の文献に掲載された意思決定に関する論文の数のグラフです。2000年代に入ってから、神経経済学が急速に関心を持たれている様子がわかります(Figure 1)。
ところで、神経経済学の研究はどのように行われているのでしょうか。まず、元になるのは、心理学や経済学、認知神経科学の理論です。それらの理論を、fMRI, PET, tDCS, TMSという機器で脳の血流量を測定/変化させることで実証していきます。近年の研究では、手術や薬剤投与の必要がなく、脳の深部まで詳細に観察することができるfMRIが多く使われています。しかしfMRIにも短所が存在します。fMRIは脳の中の血流量を測定する機械なので、あくまで「ある部分に他よりも多くの血液が集まっている」ということしかわからないのです。そこで用いられるのがtDCSやTMSといった機器です。これらは電流や電磁誘導を用いて特定の部位の活動を直接コントロールする機器なので、fMRIでの測定結果をより詳細に検証することができます。
たとえば、Sanfey et al. (2003) は、fMRIを用いて最後通牒ゲームを行っている最中の被験者の脳の賦活を測定するという実験を行いました。ここでは、不公平な提案を受諾するか判断する際には、左右の前頭前野背外側部(DLPFC)と呼ばれる部位が賦活することが示されています。Knoch et al. (2006) ではこれを検証すべく、TMSを用いて左右のDLPFCの賦活をそれぞれ抑制する実験を行いました。その結果、右のDLPFCを抑制した場合にのみ、不公平な提案を受諾する率が上がるということがわかりました。fMRIの実験からはわからなかった、左右のDLPFCの役割の違いが示唆される結果となりました。
ここまで、神経経済学の成り立ちと研究の様子を大まかにご紹介しました。二つの異質な分野から生まれた神経経済学は、そのルーツである認知神経科学、経済学からも根強い批判を受けています。内部でも統一がとれているわけではなく、研究方針を巡る論争も続いています。それでも、人間の意思決定の大元に近い脳の様子にまで踏み込む研究手法を武器に、意思決定の理論に大きな影響を与えていくでしょう。今後も目が離せない、刺激的な分野です。(執筆・発表担当: 川口いりえ)
参考文献
- Paul W. Glimcher, Colin Camerer, Ernst Fehr, and Russell Poldrack. 2008. "Introduction: A Brief History of Neuroeconomics." Chap 22 in Neuroeconomics: Decision Making and the Brain, ed. P. W. Glimcher, E. Fehr, C. Camerer, and R. A. Poldrack. New York: Elsevier.
- Daria Knoch, Alvaro Pascual-Leone, Kaspar Meyer, Valerie Treyer, and Ernst Fehr. 2006. "Diminishing reciprocal fairness by disrupting the right prefrontal cortex." Science, 314 (5800), 829-832.
- Alan G. Sanfey, James K. Rilling, Jessica A. Aronson, Leigh E. Nystrom, and Jonathan D. Cohen. 2003. "The Neural Basis of Economic Decision-Making in the Ultimatum Game." Science, 300 (5626), 1755-1758.